赤の他人のおばちゃん相手に涙を流した

 

 

 

 

 

 

 

※今だから書ける話※

 

 

 

 

 

 

 

 


先月、死のうとしていた。というより頭の中に死以外の選択肢が何も浮かばなくなってしまっていた。はじめての体験だったから、せっかくなので記録を残しておく。

(今はそんなつもりはありません。)

 

 

 


新年度になって研究関連のどデカい壁にぶち当たった。それと同時に、研究室のトップに立つことになったため、後輩や留学生に物事を教える機会が増えた。
その壁に立ち向かうには自分と向き合う時間が必要なのに、後輩育成にエネルギーを根こそぎ持ってかれる。だけどそれを嘆いてたって仕方ないし、何よりダサいから常にみんなの前では元気よく振る舞ってた。


後輩や留学生の対応が一旦落ち着いたとき、久しぶりにその壁と向き合った。そこで感じたのは、焦り。もう無理だとしか思えず、頭の中が全て不安で真っ黒に埋め尽くされた。

その結果、死が浮かんだ。4月の平日、午前10時の出来事。

 

先に書いた通り、そのときの頭の中が今でもよくわからないけど、そのときは何を考えても最後には死に繋がる、死んだ方が楽だとしか思えなかった。
誰かに連絡しようかとも思ったけど、普段人前で明るく振る舞ってしまっているからそれができなかった。しかも午前10時だし。なんて伝えればいいか分からないし。

そんな考えを持ちながら、とりあえず死に方を検索した。
検索すると、トップになんでも相談室の電話番号が出てきた。不安ごとをなんでも聞いてくれる場所に繋がるらしい。
せっかくだし死ぬ前に最後、電話してみようと思った。

 


電話するとおばちゃんが出てくれた。普段から死にたい人の対応をしてるであろうから声がとても優しかった。話を聞いてくれるらしい。

勢いで電話をかけてしまったため、全然言葉がまとまらない。タラタラとわかりにくい説明をした。なんかそれがすごく申し訳なくなって泣いた。おばちゃんはその間も淡々と相槌を打ってくれて、その優しさにさらに泣けた。

 

名前も知らんおばちゃんに自分のこと話して、泣いて、おばちゃんが励ましてくれて、そんな時間を過ごしていたらやっと今の状況の意味不明さに気づいて正気に戻ることができた。(あと電話越しに号泣したせいでマジでやばいんじゃないかと思われて、向こうがこっそり受話器からスピーカーに変更したことも正気に戻れた要因)

30分くらい電話してちょっと気持ちが復活。まだ不安は拭えていなかったけど、とりあえず死にたい気持ちは無くなっていた。ありがとう、あのときのおばちゃん。

 

おばちゃんのすごいとこは、大学院の研究についての事情をよく知ってること。話を一般化できなくて、これ伝わってないだろうなと思っていたのに、全部わかってくれた。
何人もこういう人を相手してるから知識がついていたのか、それとも電話の向こう側に複数人いて知識の共有をしてたのか。今となってはわからない。けど、やっぱりなんでも相談室(=死のうとしてる人がかける電話)なだけある。すごい人たちだと思った。

 

 

 

そんな感じ。普通なら浮かぶはずのない危険な思考で埋め尽くされるの怖。

 
今回の経験で分かったことが2つある。

 

まず、客観的な視点がないと死を選択する。
今回踏みとどまれたのは「死のうと考えている自分」と「さすがにその思考は異常だから誰かに相談した方がいいと考えている自分」の2つの視点があったから。二十数年間、少ないながらも人生経験を積んできて、鬱の人の考え方とかにも触れていたおかげで、心の異常を客観的に捉えられてたのが良かった。
逆に言えば、中高生が自死を選択する理由も今回の経験で分かった。あそこまで心も頭も「死」で埋め尽くされると、簡単に人は死ぬ。

 

次にやばくなるもっと前に誰かに話して相談すること。
死しか浮かばないって言っても、その理由って案外しょうもないことだったりする。今思えば自分の悩みも大したことないものだった。ただ、そのしょうもないことが、その人の中で、今、強烈な不安を生み出していることには変わりない。
だからとにかく不安が軽いうちに、あっ不安だってなったときに人に愚痴るのが大事だと思う。死にたいんだけど…って奇妙な相談ができる人って身の回りにいなかった(突然こんな相談されても迷惑でしょうって意味で)。

 

 

 

以上、別に体験したくもなかった体験談の記録。

「自分を追い詰めないように」って言われても、そんなことできたら苦労しないわ!ってなることが多い (まぁ必要以上に追い詰めている人もいるかもしれないけど)。だからとにかく早めの行動で、追い詰められる状況になる前に手を打っておきたいね。